私の英語学習史(6)

2014年4月2日

◆同時通訳の学校に通う

   英検1級をパスしたのと前後して、ある通訳者養成学校に通いだした。この学校は、当時関東から関西に進出したある超有名な通訳者派遣会社を母体とした学校で、入学試験にはそれこそ関西一円から一騎当千の強者が集まった。しかし、勢いに乗る私はここでも大勢の英語の猛者を”気合”で一蹴し、一発で入学を決めた。

   ・・・しかし、破竹の快進撃もそこまでだった。希望に満ちて意気揚々と門をくぐると、何とそこにはまた”地獄”が待ち受けていたのである。どうもハナシがうま過ぎるとは思っていたが、ロシアの民族人形じゃあるまいし、どうしていつもフタを開けると同じ運命が待っているんだ?—-私は首をひねらざるをえなかった。

   まず、ショッキングだったのはクラスメートの英語力である。彼らの英語というおはまさに「ペラペラ」のひと言で、言葉につまるということがほとんどなかった。彼らとて当時はまだ修行中の身、おそらく語彙や知識には限界があったはずであるが、それを感じさせない流暢さがあった。それに比べて当時の私の英語というのはもうモロに”ニッポン生まれのニッポン育ち”、犬で言えば柴犬、猫でいったら三毛猫といった感じで、ゴツゴツしている上に一本調子の早口でとても流暢な英語とは言い難かった。ときどきはキラリと光る表現で意地を見せたが、そんな線香花火のようなパフォーマンスが同時通訳の厳しい訓練に通用するはずもなく、青息吐息でついていくのがやっとの状態であった。

 

◆単語残酷物語

   もう1つ私を死ぬほど苦しめたものがあった。それは”単語の洪水”である。同時通訳コースでは毎日ジャパンタイムスの1面(後には他の面も)を読み、知らない単語を覚えてくるという課題が課せられたのであるが、新聞1ページ分ぐらいチョロイものだとなめてかかったところ、驚くべき量の単語を覚えなければならないハメになったのである。その数は、1日平均30~40語、1週間250前後に上った。もちろん、テストが課され、毎週末に行なわれた。出題数はたったの10語である。

     「これで終わった。何もかも」劇のセリフじゃないが、正直そう思った。それまでは、語彙に関しては英文の音読を通じて徐々に増やすことでなんとか切り抜けてきたのであるが、いくら何でも1週間に250語を覚えるなんて不可能であるとしか思えなかった。コースは6ヶ月間もあるのだ。単語の総計は6000語あまりになる。

   「ダメだ。とても覚えられない」-受験生時代のあの記憶に対する恐怖感が再びよみがえってきた。

 

◆新たなる戦い

  文字通りの怒涛のごとく押し寄せる単語の波にもまれながら、私はがむしゃらに勉強した。もう1日中読んだり書いたり。とにかく何とかして頭に詰め込もうとしたのである。

   そのかいあってか、はじめの2,3週間ぐらいまでは4点とか5点とかいう得点でなんとか持ちこたえた。しかし、そんな一時しのぎのワザがいつまでも通じるはずはない。次第に苦しくなり、そのうち無感覚状態になっていった。頭がマヒしてしまったのである。

    「この辺りが限界か・・それにしても自己紹介もできない状態からこうして同時通訳の卵たちと机を並べるまでになったんだ。よく頑張ったじゃないか・・・」気が付くと私は自分の部屋で横になり静かに目を閉じて考えていた。私はあきらめかけていた。

    と、そのとき、薄れゆく意識の中で何かの安全装置がカチッと静かにはずれるのが聞こえた。そして、突如猛然たるパワーが全身に流れはじめたのである。それは、高校時代のあの焦燥感と屈辱感が生み出した強烈な反発エネルギーだった。

    「クソ~ッ、こんなことでやられてたまるか! 絶対に方法はある! なければオレが作る!」—-知らないうちに私はそう叫んでいた。

    このときの詳しい内容については割愛させていたくが、幾多の試行錯誤の末、私は見事1ヶ月1000語レベルの超高速記憶法を組み立てることに成功し、それを駆使して悠々6000語あまりの単語を覚えてしまったのである!

 

 ...To be continued