私の英語学習史(3)

2014年4月5日

◆ある本との出会い

    こうして、4回生に入る手前ぐらいからようやく例文を音読によって暗記するというオーソドックスな方法がひとつの勉強スタイルとして固まってきた。しかし、このころはまだ目標も戦略も確たるものがなく、取りあえず手応えのある方法を続けてみようといった程度であった。

   そんなとき、たまたま書店で私の運命を変えるある本に出会った。その本はとても変わっていた。従来の例文集のように日常表現を並べて「さあ覚えましょう」といった類のものではなく、英語と日本語を対比しその発想の違いを解説した本であった。ここに内容の1例をあげよう。

 

   これじゃあラチがあかない。

    This isn’t getting us anywhere.

 

    私はたちまちこの本に魅せられた。ひとつには純粋に面白いと思った。上例のように、単純な英語で中身のあることが言えるというのが、何かとてもエキサイティングでスリリングなことに感じられたのである。もうひとつは、勉強方法がよくわからない以上ペラペラ度では当分ネイティブや海外経験の長い連中には勝てそうにない。しかし、英語と日本語の発想の違いという分野に踏み込めば勝機はある。そう計算したのである。この本との出会いによって初めて私の英語の勉強にしっかりとした方向性ができ、そして気合い”が入った。

  比較文化論的な視点を持つことは勉強にプラスになる。ネイティブや海外経験に対抗しようとして中身に注意を向けたのも正しい判断である。

 

◆比較文化論にのめり込む

   こうして方向性が定まると大きなはずみがつき、勉強がグングン前に進み出した。はじめの本を読み終わるとさっそく、同じ著者による口語英語の辞典と例文中心の比較文化論の本を買い求め、ノートに整理してせっせと暗記していった。最初の本と同様に2冊にもいわゆる難訳語がたくさん紹介されており、たいへん勉強になった。勉強方法はやはり音読であった。

    ここでひとつ注意しておいていただきたいことは、「例文の暗記」といっても私は完全な暗記はしなかったということである。暗記してしまうほどには読み込んだが、決して完全に暗記はすることはなかった。「暗記してしまうほどに読む」というのと「完全に暗記する」というのとでは投下するエネルギーの量が全然違う。文を完全に暗記するには膨大なエネルギーが必要である。それを限られた数の表現に投下するぐらいなら、もっと多くの英文に触れるようにした方がプラスのはずだ、そう考えたのである。

    これは今から考えても合理的なアプローチだと思う。しかし、初心者は、なるべく早く勉強の手応えをつかんで自信をつけた方がいいので、はじめの段階で取りあえず300文ぐらいの決まり文句を完全に暗唱した方がいい

 

◆死刑宣告

    さあ、こうしてようやく方向性と方法が定まり勉強が勢いよく前に進みだしたのだが、せっかく勉強がノリはじめた矢先、あろうことかまた私は奈落の底に突き落とされることになった。今度は英検1級に落ちたのである。それも1次試験で。少しは力もついてきたのでいけるだろうと思って受けたのだが、甘かった。

    ちなみに、”不合格の判定”はBであった。判定Bといえばもう死刑宣告に近い。語彙、読解、リスニングなどあらゆる面で力が足りないということである。

    2級に落ちたときのショックも大きかったが、自分の勉強に自信を持ちはじめていたこのときの衝撃はまたカクベツであった。しばらくの間は何が何だかわけがわからなかった。こういうのを放心状態というのであろう。あとで冷静になって考えてみると、表現はかなり高度なものを含めたくさん覚えていたが、4技能(読・書・聴・話)を合わせた総合力がまったく不足していた語彙力も全然足りなかった

 

   それにしても判定Bとは・・・。1級には2次試験もある。それも恐怖のパブリック・スピーキングが。このままいくと、1次、2次を通過できる日はいったいいつになるのだろうか。そのときの私にはその日の来るのが遠い将来のことのように思われた。

 

  このころの私は、片方で例文の暗記という実戦的な勉強はしていたものの、もう一方であまりにも日本語と英語の対比研究に心を奪われ過ぎた。つまり、”分析”ばかりしていたのである。これではホンモノの英語力は身につかない。言葉を身につけるには、その言葉を丸ごと吸収するという姿勢がもっとも大切である。(ただし、このとき身につけた”英語を見る目”は、あとで非常に役立った)

 

...To be continued